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中国の王朝

夏王朝――

古代史研究者たちの最終目標は夏の歴史の探求にある。すでに発掘されている河南省の二里頭や王城崗の遺跡調査の結果、夏王朝末期の文化を解くカギになるとして注目をあびたことがある。しかし遺物と史実とをむすびつける十分な証拠がそろわないため、学界の大勢はまだ結論を出すのを見含わせたままであるのが現状である。

殷王朝――

殷の始祖は、母親が玄鳥(ツバメまたは鳳風)の卵を飲んだために生まれたという神話があるが、初期の青銅器の文様には鳥が取り扱われることが少ないことからこれは否定されている。また、鳥と卵は生殖器のシンボルであり、古代人の「生殖器崇拝文化」の観点から見直しが必要であろう。

殷代後期には、多くの人が専門的に商業を営んでいたが、玉器の材料の中には遠く新疆省から運ばれたものがあり、それらは貢物ではなくて交換貿易によるものだったという。また当時飲酒の習慣の普及に伴って、各種の疾病が発生していたと考えられる。股王朝は始祖の湯王から紂王まで十七代、約500年間つづいたことになっており、今から三干年前、紀元前1100年ごろ、周によってほろぼされた。しかし、現在甲骨文などによってたどられているのは、第十一代の盤庚(ばんこう)あたりまでの史実である。つまり紀元前1300年ころ、王朝の晩期に当たる約200年間のことであり、これより以前の史実の探求は意欲的に行われているが依然として不明瞭の感がある。

宋王朝――

宋代における文化の興隆は、出版とくに印刷術の発達によるところが大きい。そうした印刷術の向上は、唐、五代の頃より高まっていた出版の気運をいっそう盛リ上げ、文教を重んじた宋朝の学問・思想・宗教の発展を促すこととなった。

西夏(1032~1227)

11世紀中頃、現在の西安の西北、寧夏回族自治区から敦煌までの、河西回廊を占める辺境の一郭に、チベット系の羌族から分かれた少数民族のタングート羌が小さな王国をつくり、中央から独立して「大白上国」を自称した。そして後に西夏とよばれた。小国であったが、ジンギスカンによって亡ぶまで宋も金も侵すことができなかった。

西夏は、漢語、ウイグル語、チベット語などを使っていたが、注目すべきことは国字をつくったことである。そして漢字を併用して中国の古典の翻訳をはじめ、医書や字典をつくり、仏書の訳経を行っている。しかし、西夏文字もやがて滅び西夏時代の文物も、カラホトや敦煌から出土のものを除けば決して多くはない。だが、短命にして滅ぶ国の文化にふさわしく、濃密でかつ華やかである。さらに西夏は元に滅ぼされたために専史がつくられずに終わり、中国の正史の中には西夏史が欠けている。

清王朝―――

清は明を滅して中国を統一し、明の外患であった内陸アジアの諸国を平定し、さらに周辺の諸国を藩属国とし、一大帝国を築き上げました。清朝の全盛時は、17世紀後半から19世紀初頭までの康煕帝、雍正帝、乾隆帝の統治した110余年で、国内政治の基礎も充実し、財政も豊かで、康煕字典、四庫全書の完成など学術文化も大いに発達し、当時世界第一の強国と称せられました。

清王朝の時代に始めて生まれたものーー1)旗袍(旗袍がもととなってチャイナドレスが作られた)2)満漢全席3)サツマイモ(スペインから持ってきたもので、人口の急激な増加をもたらした、やせた土地で栽培できる)4)京劇(乾隆帝のときに地方劇を集めて、催おし、その中から京劇が生まれた。特に西太后は頤和園の中で終日京劇を鑑賞した)

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