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中国の少数民族
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主要居住地は遼寧省、黒竜江省、吉林省の東北三省で、そのほか河北省、内蒙古、北京に比較的多く住んでおり、さらに南京、成都、天津、広州、福州、銀川、西安等の大中都市にも分布している。分布地の広さでは回族に次いでおり、これは、清代に地方に配置されていた満州八旗が清朝のあとそのまま居住地にとどまったという事情による。 満州族は、3千年前粛慎人を先祖とする南方ツングース族に属し、「白山黒水」の地、つまり長白山より北、黒竜江の中下流にかけての地域を居住地にしてきた。彼らは10世紀から女真(または女直)と呼ばれるようになり、12世紀に金朝を建てたが、元に滅ぼされ、以後16世紀までは元明の支配下におかれた。16世紀後半に至って、女真の一酋長であったヌルハチが兵を挙げ、女真諸部族を統一して後金を建てた。さらに2代目のホンタイジ(清の太宗)が、民族名を満州と改め、1636年に国号を清とした。蒙古文字を改良した縦書きの満州文字もホンタイジの頃に完成した。ついで順治帝のとき1644年に山海関をこえ、以後260年余にわたって中国を支配することになった。 満州族は八旗という、政治・軍事を握る軍団に編成されて、全国の主要地点に配置されたが、しだいに圧倒的多数の漢族に同化していき、民族の習俗を失い、自分たちの言葉も忘れて、漢語を用いるようになった。しかしすべてが完全に漢化したわけではなく、黒竜江省の?琿県と富裕県の満州族が集中して住んでいる地区では、老人たちは満州語を話している。またこれらの地区では、風俗習慣の面でもなお一部古い伝統習俗を残している。 解放前までは支配階級から数々の抑圧と差別をうけ、独自の民族とはみなされず、彼らも自らが土家族であることを隠すようになっていたが、解放後、人民政府は1956年10月に正式に単一の民族と認め、1957年に、湘西ミャオ族自治州(1952年成立)を湘西土家族ミャオ族自治州と改名し、土家族は名実ともに自治権を有する民族として承認された。湖南省(永順、竜山、保靖、古丈の各県)と湖北省(来鳳、利川、鶴蜂、咸豊、宣恩の各県)の西部に集中的に居住するほか、四川省東部にも多く分布している。これらの地区は、海抜400~1500メートルの山岳丘陵地帯で、山間を河川が縦横に流れ、重要な交通運搬の用を果たしている。気侯は比較的温和で、降雨量も多く、水稲、トウモロコシ、イモ類、小麦などの農耕のほか、林業、牧畜、漁業なども営まれています。 土家族は「ピツカ」と自称し、起源については、古代の巴人の子孫とするもの、貴州から移動してきた鳥蛮の一部とするもの等、まだ定説はない。言語はイ語群に近い土家語を話すが、民族の文字はなく漢字を使用している。古くから漢族との同化が進み、漢族の影響を強くうけているため、大部分の人は漢語ができ、なかにはミャオ語、土家語、漢語ができる人もいる。漢語ができ漢族文化の影響を強くうけてきたことから、土家族の文人が明清時代にあらわれ、竹枝詞や古体詩を残している。解放後に出てきた詩人や作家も少なくありません。 広西、湖南、広東省にまたがる南部の山岳地区を中心に中国西南一帯に広く分布する山地民族である。そのうち広西地域がヤオ族総人口の大部分を占め、金秀、巴馬、都安、富川の4つの自治県に比較的多くの人が住んでいる。分布の特徴は“大分散、小集中"といわれ、チワン、ミャオ、タイなどのように自治区や自治州をつくるほど大きな集中居住地はなく、せいぜい自治県どまりである。大部分が1千メートルを超す山岳地帯に数戸から数十戸の集落をつくり、周囲の漢族、チワン族、ミャオ族などの村と隣接している。彼らは一般にヤオ語のほかに漢語ができ、さらにチワン語、ミャオ語、タイ語が話せる人も少なくない。 ヤオ族は槃瓠(槃護)を祖先神とし、「評皇券牒」(過山榜)という文書を携行して山から山へ移動する焼畑民族として知られている。「評皇券牒」は中国皇帝から勅令をもってヤオ族にあたえられた一種の特許状で、この文書をもつ一族には子孫にいたるまで徭役と租税を免除し、焼畑耕作をしながら山を渡り歩く自由を保証するというものである。山地を移動するヤオ族は国境を越え、ベトナム、ラオス、タイ、ビルマにも移住し、現在、中国以外に住むヤオ族は数十万を超えるという。ところで、ヤオ族の源流は漢代の長沙、武陵蛮というのが通説であるが、ミャオ族など同じ武陵蛮の流れをくむ民族と違うのは槃瓠を祖とするという点である。ヤオ族に対する抑圧は明清の頃にいちだんと厳しくなり、明代の広西南部の大藤峡に依った侯大苟らの反乱、清代の湖南江華の趙金竜の反乱などがあった。民国になって1929年の邓小平、チワン族の韋抜群らが広西右江でおこした百色蜂起、紅七軍の成立にもヤオ族が多く加わっていた。 湖南省の西北部に湘西土家族・ミャオ族自治州(州都は吉首市)がある。湘は湖南省の別称である。湘西は武陵山区にあり、湖北、四川、貴州の各省に隣接する辺境で、軍閥が跋扈した時代から解放前夜にいたるまで、土匪が各地に割拠し野蛮な恐怖の地域とみなされていた。 先祖は王女(竜王の娘、または高辛王第三王女ともいう)であり、広東省潮州北方の鳳凰山が故郷であると言われている。ショウ族はヤオ族、ミャオ族とおなじく武陵蛮が起源で湖南、貴州、四川あたりから山伝いに南下し、ヤオ族とも分化して広東からさらに北上し、明代ごろ現在の福建、浙江の山地に定着するようになったというのが定説である。ショウ族は雷、藍、鍾の三姓が主で、ヤオ族に多い盤という姓はあまりみられない。ショウ族は単独に村落を形成することはまれで、数戸から数十戸が漢族と雑居して生活している。一般に交通が不便な山地でおもに水稲や茶などの栽培をして生活している。ショウ族の居住地は漢族の客家が入ってきた所とかなりの部分がかさなっている。ショウ族はこれら客家人とまじって生活してきたわけで、大部分のショウ族はすでに民族のことばを失って客家語を使うようになっている。 1979年6月に国から正式に承認され、雲南省「西双版納」景洪県に定住する。人口1万2千人で三角形の花模様の頭巾をかぶる珍しい風俗をもち昔から山あいの居住地で主に茶づくりにいそしんできた。 内蒙古自治区を中心に中国東北から雲南まで、10地区の広い範囲に341万人が住む。夏の盛りにかけて開かれる牧民の祭り「那達慕」大会は牧畜業振興を祈る民族行事であり、様々な催し物が行われるが物資交流の交易会場でもある。 タイ族はすべて雲南省内に住み、南部のシーサンパンナ・タイ族自治州、西南部の徳宏タイ族・チンポー族自治州が主要な居住地であるが、耿馬、孟連自治県などにも分散している。宗教は東南アジアの国々とおなじく小乗仏教である。文字はビルマと同じくインド南部のパーリ語の系統をひく表音文字であるが、4種類の文字があり、そのうちシーサンパンナのタイ・ル方言、徳宏のタイ・ロ方言の文字が有力で、 1954年にこの2種の文字にそれぞれ改良がくわえられた。彼らは一般に姓をもたない。 旧暦3月上旬、一年一度の盛大な「溌水節」が3日間行われる。たらいやバケツで文字どおり水かけごっこをして、南国の蒸し暑さを吹きとぼすような爽決な祭りである。 雲南省の西北部、四川省に近い地域に住んでいるが、最も集中しているのが大理より北へ約200キロ行ったところの麗江で、ここは1961年から麗江ナシ族自治県となった。女性の服装は独特で、ズボンに前かけ、背中に羊皮の肩かけをし、それにつないだ白いひもを胸の前でタスキ状に交差させている。腰には北斗七星をかたどった7つの円形の飾り物「七星」を横につなげて結んでいる。男性は漢族の服装と変わらない。 ナシ族は現在9割以上が農民であるが、歴史的はイ族と同じく北から移動してきた烏蛮種チベット系の遊牧民の子孫と考えられており、言語はイ語系ナシ語である。明・清以来、麗江のナシ族は漢文化を吸収し、詩文にたくみな文人も多く出ている。清の光緒帝年間には中学・小学校もでき新聞も出ていたそうである。ところで、ナシ族の文化を語るとき、東巴(トンパ)を欠かすことができない。彼らの宗教は東巴教という多神教で、そのシャーマンを東巴という。東巴教の経典はナシ族固有の象形文字ー東巴文字で記されている。東巴文字の起源は千年以上もさかのぼるといわれ、代々東巴が伝えてきたものである。東巴経にはナシ族の神話伝説が記されていて文学的価値も高く、特に「創世記」は有名で、天地開闢、人類万物の起源が描かれている。 少数民族の中で最も人口が多く、農業が主体であるが、女性たちは色彩艶やかな錦織りを好んで編む。「壮錦」は著名な民芸品である。祭りは毎年旧暦3月3日の「歌嘘節」で、この日が訪れると、民族衣装で着飾った青年男女は、もち米、ちまき、たまごを持ち寄って山や竹林あるいは水辺に集まり白作の詩歌を口ずさむ。愛情を歌にして男女が一間一答形式の“対歌間答"で恋人を選び合うという優雅な風習である。 貴州省の東南ミャオ族トン族自治州と広西の三江トン族自治県に最も集中していて、トン族全体の半数以上がこの両地区に住んでいる。トン族の自称は「カム」というが、古代の百越や僚と血縁関係があるといわれている。トン族の伝承では、祖先は現在の広西の梧州または江西省の吉安附近に住んでいたが、明代に戦乱をのがれ、豊かな土地を求めて現在の土地に移住したと伝えている。トン族は独自の言語を持っているが、固有の文字はなく、1958年にローマ字方式によるトン語文字が作られた。一般には漢語漢文が普及しているが、北部と南部のちがいがかなり見られ、貴州省の天柱県を中心とした北部地区は漢化がすすんでいるが、貴州省の黎平、従江、榕江、広西の三江を含む南部地区は、県城など都市部以外はトン語が話され、漢語ができない人が多いといわれる。トン族独特の建造物として風雨橋(橋全体に瓦屋根がつき、等間隔に塔状のやぐらが築かれている)や鼓楼(村の中心地にそびえる宝塔状の建物)がある。トン族は米が主食で、モチ米のおこわやモチをつくり、また油茶(植物油でモチ米をすこし焦がし、茶の葉を加えてさらに煎り、湯をそそぎ塩で味つけしたもの)をたしなむ。 ムーラオ族は、広西チワン族自治区の西北部が主要居住地で、広西省以外には分布していない。有名な景勝地である桂林から柳州市にかけての西北の地に居住する。貴州省境から連なる九万大山の南にある羅城にはムーラオ族全体のおよそ8割が住み、その地域は「ムーラオ山郷」と呼ばれている。彼らは岩の多い起伏に富む山地に村落を築き、水稲、トウモロコシ、豆、イモ類などの作物をつくっている。無煙炭、硫黄などの地下資源に恵まれている。言語はトン族、スイ族、マオナン族に近く、チワン語と語彙が共通のものや漢語からの借用語も少なくない。ムーラオ族の間では民族語が用いられるが、漢族とは漢語で話し、チワン族と往来のあるところではたいていの人がチワン語も話せるという。民族の文字はなく、文章を書くときは漢語を用いている。ムーラオ族は現地の漢族やチワン族との通婚もあり、接触が密接で、風俗習慣面でも漢族、チワン族とあまり違いがみられなくなっている。彼らは歌をうたうのが好きで、とくに祭りの日(春節や中秋節)に若い男女がくりひろげる「走坡」という伝統的な対歌(歌垣)の行事が盛んである。 トゥ族が比較的集中しているのは青海省の互助トゥ族自治県で、そのほかに同省の大通、民和、楽都、同仁の各県と甘粛省の天祝、永都県などにも分布している。互助トゥ族自治県は、人民政府主席がトゥ族、副主席が漢族、政府委員の60パーセントは少数民族という態勢で、1954年に成立した。トゥ語の語彙は60パーセント以上がモンゴル語のホルチン方言に近く、チベット語や漢語からの借用語も多い。大通県のトゥ族は漢語化してしまい、他のトゥ族にも漢語やチベット語を話す人がかなりいる。民族の文字はなく、漢字を使用するが、1979年に漢語ピンインにもとづいたトゥ語文字草案がつくられた。昔から、袖に虹模様のついた服を着る伝統があり、女性たちは「ニュウダ」と呼ぶ頭の飾りを付けている。 宗教としては、チベット族とおなじく伝統的にラマ教を信じている。民歌として“花児"があり、農暦4月8日や6月6日頃には各地で“花児会"が開かれ、仮設舞台で“花児"競演があるほか、山のあちこちでグループ同士、また気が合えば男女が一対一で即興で歌の掛け合いをする。いろいろな少数民族が各地区から集まってきて、日用雑貨を売る露店や食べ物を売る店も並ぶ。 |
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