陶磁器
産地ーー丁蜀鎮 宜興 景徳鎮
丁蜀鎮
宣興県丁蜀鎮は陶都とよばれ、紫砂・青瓷・精陶・均陶・彩陶・日用陶器などを産出してきた。
紫砂は,紫,朱,緑,黄など独特の色をした磁土を用いた製品で紫泥、朱泥などともよばれている。茶器を中心として食器・植木鉢などであるが、茶器は、茶の色と香・味が変わらず、夏期においても長時間茶が変色しない点で珍重される。均陶は造型した陶器にテザインしながら彩色したもので、各地の公園などにあるパンダのごみ箱が例である。彩陶は正しくは彩釉細精といい、黒もしくは茶の釉をかけたものが代表的であるが、現在は青、黄、緑などの明るい色のものが増えている。精陶は最も歴史が新しく、1960年代に始まったもので、一見磁器のようであるが陶器である。主として茶器、食器、飲酒器などを生産する。
宜興
宜興紫砂陶器は、江蘇省宜興地方に産する鉄分の多い特殊な粘土で作られ、釉をかけないで焼き締められたものであるため、土肌に微妙な味わいに微妙な味わいがある。
特に朱泥、紫泥、黄泥の茶器(急須)、酒器は深い色合い、独特の形でオリジナリティーに富む。表面を顕微鏡でみると、多孔性であることがわかり、表面積が大きいので茶器の場合、冬にお茶をたてても熱を逃さず夏でも手をやくこともなく、お茶の渋みやあくをよく吸収し、まろやかな味をひき立てる。永年使い込むと、お湯を満たすだけでお茶の香りを味わうことができるという。宜興の人たちは「景徳鎮の陶磁器は使いこむと細かいキズで表面が曇ってくるが、宜興紫砂器は使えば使うほど光り輝いてくる」と言う。
その昔、戦国時代の越国の忠臣・范レイが引退後、ここで窯をおこしたので"宜興陶磁創業の開祖"といわれる。北宋時代の文豪で、江南に君臨した大役人・蘇東披が茶に凝り、紫砂急須を愛用したことから発展し始め、明、清の時代に詩、書画などの芸術と結びついて、香り高い工芸の花を咲かせた。わが国には鎖国下の江戸時代に長崎を通じ、清朝の紫砂器が脈々と輸入され、当時の文人に珍重された。また、宜興は日本の家庭で広く使われている常滑焼の"朱泥"急須のルーツとも言える。
景徳鎮
景徳鎮は、中国中央部、江西省の東北端にある都市。古くから"陶磁器の都“として知られる。昌江の流れに沿って、千数百年の間陶美を生んできた古都であるこの地は、世界の陶磁器の源流である。春から秋にかけて窯が開かれる期間は、労働者やバイヤーが集まって人口も急増する。
昌江の南岸にあることから、唐時代までは昌南鎮と呼ばれたこの地で窯業が盛んになった理由は、1)近くの高嶺山から良質の陶磁土が採取できたこと。2)この地域のなだらかな丘陵の地形が登り窯をつくるのに適し、また、付近に燃料の松材が豊富だったこと。3)昌江の水運により、陶磁土、燃料、製品の運搬が容易だったことなどがあげられる。
その歴史は、三世紀初~六世紀末まで揚子江流域を主要領土とした六朝時代までさかのぼるといわれるが、陶磁器の産地としての名を確立したのは、宋時代の景徳年間に、景徳鎮と改名されたころから。景徳鎮の陶磁器は、特に磁器が優れ、宋時代には影青(インチン)と呼ばれる彫り模様に青味を帯びたきわめて優れた青白磁器が焼かれた。その後、製作技術も進歩し、明の初代、太祖洪武帝の時代には、御器廠が設けられ、染付、赤絵が焼かれた。明代のころから景徳鎮の陶磁器はポルトガル、イスパニア人によって欧州に運ばれ、英語の「チャイナ」は陶磁器を意味する一般名詞にまでなった。清代の康煕・擁正・乾隆の三帝時代には、華麗な彩磁が焼かれ、その精巧な技術は古今を絶するといわれている。このように栄華をきわめた景徳鎮も、清朝末期、太平天国の乱の際、政府軍に破壊され、さらに、清朝の滅亡、内戦、第二次大戦などにより陶磁器生産は苦難の道を歩んだ。しかし、中華人民共和国時代になって生産設備は復興され、近代的な生産方式も導入されて、再び"陶磁器の都"として繁栄を取り戻している。
景徳鎮の代表的な工芸品は薄胎磁器や絵村け技術の極地とも言える青花、釉裏紅、粉彩などである。粉彩は、焼成温度が比較的低いので「軟彩」とも呼ばれ、浮彫の凹凸感に独特のものがある。近年景徳鎮の技術者たちは、伝統の粉彩技法を発展させ、新しい種類の粉彩磁器を多く生みだしている。
青花馬文花瓶(高さ47cm)
粉彩錦地水池花藍瓶(高さ25cm)
粉彩十二ヵ月花文掛皿(径26cm)と
粉彩十二ヵ月花文茶碗(高さ8cm)
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