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中国の舞踊


あらすじ

奴隷社会における舞踊は「巫舞」と呼ばれ神を楽しませるものであった。春秋・戦国時代には「世俗の樂」「鄭偉の音」と言われる民間舞踊が流行するようになった。この時代の民間舞踊の隆盛とさまざまな歌舞芸人たちの創造は、漢代の演劇、演芸、舞踊の発展の基盤となった。
秦・漢時代には楽府が開設されたが、これは民間舞踊を収集・整理し向上させるうえで一定の役割を果たした。漢代に流行した「百戯」と呼ばれるさまざまな演劇、演芸には曲芸、武術、奇術、喜劇、音楽演奏、歌謡、舞踊などの民間技芸がある。両晋、南北朝は動乱の時代であったが、同時に諸民族の文化が融和していった時代でもあり、さまざまな舞楽芸術が交流し、影響しあい、吸収しあった時代でもあった。風格の異なったこれら各民族の民間舞踊と音楽は、中原地方に伝わって中国の舞踊芸術を豊かにし、唐代舞踊のめざましい発展を促すこととなった。
唐時代には音楽、舞踊、詩歌が大いに発展し、輝かしい実を結び、中国古代の舞踊芸術の大発展期となった。宮廷には各種の舞楽機構が設置された。これは雅楽以外の音楽、歌唱、舞踊、曲芸の教習所である「教坊」、長安以北の禁苑のなかに設けられた歌舞芸人の養成所である「梨園」、儀礼・祭祀の雅楽を管理する「太常寺」などで、これらの機構には数多くの優秀な民間の芸人が集められ、多くの職業芸人が計画的に養成された。全国各地の官僚に奉仕する官伎、軍官に奉仕する営伎、貴族おかかえの家伎には歌舞にすぐれた芸人が多かった。奴隷的地位にあったこれらの歌舞芸人は、ありとあらゆる屈辱・虐待を受けていたが、また一方では芸術創作をおこなう上での物質的条件にも恵まれていた。文字どおり、これらの芸人の苦難にみちた労働と知恵の創造によって、古代舞踊は新たな水準に達したのである。
唐代の宮廷舞楽は『坐部伎』と『立部伎』に大別される。その演目の大部分は唐初期から隆盛期までの約百年間に、中原の舞楽を基礎として国内の少数民族や外国の音楽・舞踊を吸収して創作された新しい舞楽であり、唐代に長期にわたって保存されつづけたものである。これらは国名や地名を楽部の名称とせず、楽曲の名称で楽部を呼んでいた。すべての楽部は舞踊を伴い、内容はいずれも支配者の功徳をたたえたものであったが、いろいろな民間舞踊の様式を取り入れていた。
宋代の歌舞曲は唐代の歌舞大曲を継承したものであるが、いくらか変化がみられ、単なる舞踊の上演にとどまらず、舞踊のなかに物語を叙述したり、上演したりするくだりが播入されている。
元・明・清の時代は階級矛盾と民族矛盾が尖鋭化していたので、大衆はより直接的に人民の苦痛にみちた生活と反抗精神を表現できうる芸術様式を求めた。単なる舞踊ではこのような要求をみたすことはできないが、演劇はこの要求に合致する。したがって演劇は次第にさかんになり、舞踊は逐次演劇のなかに組みいれられ、演劇の中のなくてはならない要素となっていった。この時期、舞踊の一部は依然として民間に伝承されていたが、単独で上演されることは、きわめてまれであった。元・明・清の時代には、民間の演劇、音楽、舞踊を破壊し禁止する命令が次々に下された。この理由は、彼らが人民の造反を恐れたからであり、彼らの罪状が暴露されたり、反抗・蜂起を起こされたりするのを恐れたからである。一方、民衆は千年あまりの長きにわたって、数々の苦難と戦乱にさいなまれ、民間舞踊もたえず禁止の憂き目にあっていたが、それらは依然として継承されつづけ、保持されていった。

新中国成立の前夜には、一部の民間舞踊はすでに失われるか、消滅寸前の状態にあったが、新中国成立後、特に1950年代から1960年代の前半期にかけて、各民族の民間舞踊は中国共産党の保護政策のもとに、色とりどりの花を咲かせるに至った。多くの民間舞踊が収集され、整理され、さらに創意工夫をほどこされて、いまでは中国人民と世界の人びとに歓迎される舞踊芸術にまで向上したのである。

あらすじ
歌舞団
舞踊曲
少数民族の舞踊
さまざまな舞踊